夜一夜、人よ、想ひ染め
希望は持て。期待は、持つな。そうやって過ごした、百余年間だった。
けれど希望が姿形を取り、「闇の戦士」として目前に現れると、期待をするなというのが、無理な話だと悟った。
たとえその希望が、私など、眼中になかったとしても。
「公、闇の戦士様がお越しです。タワー前にいらっしゃいます」
久々に目を通していた『蒼天のイシュガルド』を閉じる。扉の向こうから聞こえるライナの声は、妙に暗い。
深慮の間から出ると、廊下に立っていた孫娘の瞳は、やはり昏かった。急を要する雰囲気ではないが、何だろう。
「お会いに、なりますか?」
「ああ。星見の間までお通ししてくれ」
敬礼を一つ、ライナはきびきびと去っていった。扉を施錠し、ゆっくりと後を追う。かの暁の血盟一行は、つい数時間前にウリエンジェを加えて、イル・メグから戻ったところだ。
闇の戦士の活躍には、目を見張るものがあった。わずか二週間ほど前に喚び出したばかりなのに、レイクランドの罪喰いを倒すだけに留まらず、ユールモア軍の手にあったミンフィリアを奪取し、大罪食いと化していた先代ティターニアを討伐してイル・メグにも夜空をもたらした。彼女の内側に溜まり始めた過剰な光を除けば、順調すぎて末恐ろしいほど。
気休めにしかならないのを承知で、闇の戦士にはささやかながら夜食を届けさせた。既に床に就き、明日からの旅程に備えている頃合いと思ったが――。
廊下を進むほど、妙な不安が募った。深夜に訪ねてくる理由は、悲報に分類される相談か、でなければ明朝を待てないほどの朗報か。後者に賭けられる胆力は持ち合わせていない。
前者については、いくつか思い当たる。例えば、心身の不調。他の仲間には打ち明けづらいと感じる可能性なら、折り込んでいた。だとしても、私が格別に信頼されているわけでは、もちろんない。むしろ逆だ。最も心配をかけていい相手、すなわち気を揉ませても構わない人間だと思われているからこそ。
本格的に思い耽る前に、星見の間前へやってくる。中にはもう、彼女がいるようだ。ふう、と息を吐き出した弾みで扉へ手を掛けた。
彼女の目をまともに見られないまま、地上への一歩を踏み出した。冥王が作り出した幻影都市が横たわる水底を後にし、光差し込む水面へ。
ユールモア近くの砂浜へ泳ぎ着いて見上げた空は、高く、青く。そしてよく澄んでいた。クリスタルタワーから離れて久しく、魔力を酷く消耗していたのに、心は穏やかだった。
クリスタリウムへは、ユールモアを経由した。少し前まで敵対していた国家から、臨時の飛行便を出してもらうとは。なおさら、夢心地だった。
ぼーっとしすぎて、空の上で何度「大丈夫?」と彼女に聞かれたか知れない。蒼天を貫いて立つクリスタルタワーが近づくほどに、落ち着くもの、そして高まるものがあった。
――戻ったら、どうしよう。どんな顔で民の顔を見れば。そもそも、このまま帰っていいのか。街ひとつ、己の宿命に利用したようなものなのに。
クリスタリウムの飛行艇発着所に着く頃には、宛てもないのに逃げ出したくなっていた。フードを深く被り直して、緊張で定まらない足を、彼女の手を頼りに、なんとかタラップに置く。姫と騎士のようだ。立場が逆だろうに。
「公」
ライナだ。そちらを見なくてもわかる。
辺りは静かだが、街中の者が固唾を飲んでひしめき合っているのを感じた。皆の前では、自力だけで立っていなければ。
支えを辞して、杖を繰る。この世界へやってきた時より歩みが重い。それでも。
「……皆、すまなかっ」
「おかえりなさい」
涙声に遮られる。
呆気に取られて顔を上げたら、ライナは潤む瞳を隠さずに私を見ていた。濡れた頬を拭わなければ、泣いていることにはならないとでも言いたげに。
「おかえりなさい、と申し上げています」
必死の剣幕だ。彼女の背後に集った民たちも、同じ顔つきをしていた。私からの返事を、ただひとつに絞ろうという、凄まじい気迫。
悪いことをしたと思ったら、謝るのは必然だ。皆を赤ん坊の頃から見てきて、そう教えてきたのに、私には詫びのひとつも許さないとは。頼もしいのと、誇らしいのと、何より幸せなのと。胸を占める感慨に任せて微笑んだら、言葉は自然と続いてきた。
「公自ら行かねば、意味がないのです。……夕食を、ご一緒されたいと」
腹の底が、ずん、と重くなった。
嫌なわけがない。だからこそ、彼女の純粋な厚意に嫌気が差すのだ。
「受け取る資格がないと、伝えてくれ」
反射的に繰り出した言葉は、意趣返しのようだった。〝よう〟ではなくて、実際そうか。結構、根に持つタイプなのだなと思い知らされる。
彼女を傷付けたいのか、そうでないのか。どちらも本当で困る。
「行ってきてよいのだぞ。休息も必要だろう」
「いや。ここが踏ん張りどころだ。休んでいる暇はない」
ベーク=ラグが不承不承、押し黙る。一本獲り返した、なんて幼稚な喜びか胸を過った、そのときだった。
「おじいちゃん」
扉が開く。今になって姿を現したライナが、つかつかと大股で歩み寄ってくる。泣き出す寸前の子供を思わせる眼差しを引っ提げて。
動揺せずになどいられるか。ライナが職務中に私を「おじいちゃん」と呼ぶなど、これまでになかったことだから、尚更だ。
「何をそんな、意地になっているんです。闇の戦士様のこととなったら、何もかも放り出して走っていくような人が……らしくない」
「……意地になっているつもりは」
「せっかくのご厚意でしょう。本当に、受け取らなくていいのですか。絶対に、少したりとも、後悔しないと誓えますか」
頷けない。頷けるわけがない!
夕食を共にしたい。話をしたい。何より、顔を見たい。だが、それをしたらオレは。
「でしたら」
あらゆる思い煩いを、即座に切って捨てられる。そっと包むように、私の両肩に手を置いたライナは、絞り出すように続けた。
「でしたらどうか、お会いになってください。そんなお顔つきでは、上手くいくものも上手くいかなくなってしまいますよ」
「まったくだ。ワシも少し、気晴らしに辺りを散歩してくるとしよう。一旦解散じゃ、解散!」
引き留める間もなく、ベーク=ラグは尾を軽快に振りながら出ていってしまった。この二人に組まれては分が悪い。「闇の戦士様を、こちらへお通ししますからね」と言い残し、ライナも出ていく。扉を閉めないのは、今すぐ来客があるから備えよ、との意味か。しっかりしろと、背を張られた気がした。